どうしてこんなに不安になるの?
は毛布を手繰り寄せて抱きしめた。
昨夜は泣いてそのまま眠り込んでしまって、今目が覚めたのだ。起きた途端、気持ち悪いくらいの不安に襲われ、震えが止まらなかった。
いや、いやだわ。この不安、喪失感…あの時と同じ。サジェを失った時の感覚と同じだわ。
シフォンに会えないのが不安なのに、会うと思うと苦しくなる。彼の存在は私にとって、一体何なのかしら…。
いくら考えても喪失感等は消えることはなかった。寧ろ自分の奥深くまで根付いて、消える事はないのかもしれないとまで思った。
ただ、唯一の救いはシフォンがまだこの世にいて、会おうと思えば会う事が出来るということだった。
「ん…?」
寝返りを打つと、こつんと何かに腕が当たった。おかしいと思い強くつぶっていた目を開ける。
「あっ……ワルター」
そこには、のベッドに突っ伏して寝るワルターがいた。
枕の横に左手が放り出されているので、が寝てからも額に手を乗せて加減を見守っていたのかもしれない。
「ワルター…」
くすりと笑い、はワルターの左手に自分の手を添わせると、彼の指の間に自分の指を絡ませて軽く握る。
今はもう、ワルターの気遣いが身に染みて嬉しかった。体中に広がっていくその優しさが熱を帯びて、の震えを止める。
「ありがとう…大好きよ。」
口を付いて出た言葉に驚くと、は空いている方の手を自分の唇に当てた。変な事を言ってしまったと、自分でも驚く。
「……大切な、仲間だもの。」
言い聞かせる様に呟くと、ワルターの指を弄ぶ。
ごつごつと骨張った白い手に、肉刺がたくさんあった。剣肉刺ではないが、男の人は皆同じなのだろうと思う。努力した分だけ、何かの跡が残る。ワルターはずっとシャーリィのために努力してきた。メルネスを守る親衛隊長に相応しくなるため、努力してきたのだ。
は心なしか、自分の奥底が疼くのを感じた。しかしそれが何かは、わからなかった。
「ん…」
しばらくして、ワルターは眉間に皺を寄せて顔を上げた。まだ寝ぼけているのか、瞳は半開きだ。
「………痛い………」
彼は体をボキボキと鳴らし、辛い態勢で寝ていた事を後悔してる様だった。
「おはよう、ワルター。」
「ん……ああ…」
彼は繋がれていない方の手で目を擦るとを見た。そしてあまりにも彼女が近くにいることに驚く。
そして…
「っっ…!」
繋がれている手にやっと気付いた様で、彼は明らかに狼狽する。
「どうしたの?大丈夫?」
はワルターの額に自分の額をくっつけると、熱がないか確かめた。急にその白い肌を真っ赤にした彼が、風邪を引いて熱を出してしまったのかと思ったからだ。ワルターはそれに大人しく従うと、何も言わずにただ自分の額に彼女の額を付けたまま、指も絡ませたままにしておいた。離すことが勿体なく感じ、体裁より気持ちが優先されてしまったのだ。
「熱、ないわね。」
「ああ。節々は痛いが、風邪は引いていない。」
「でも、あなたは真っ赤になったわ。」
「それは……生理的現象だろう。」
「生理的現象…?」
そういえば、は理解出来ずに話を変えるだろうと思った。彼女はワルターの言葉を理解するのを諦め、彼の思惑通り話を変える。
「ずっと、見守ってくれてたの?」
「途中で寝てしまったがな。」
「でも、そばにいてくれたわ。」
は繋いだ手を握りしめた。彼の手が赤くなるくらいに強く。ワルターは彼女の表情を見て、感情という厄介なものと戦っているのだと思った。それに自分は関係せず、ただ一人の男…シフォン・ウェレンツだけが関係しているのだと考えた。
昨夜の会わなければいいと言う言葉は、ワルターにとって密かな抵抗だった。シフォンにが会うのを望むならば嫌がらないと言った手前、セネル達のように嫌悪を表すのは憚られたのだ。しかし、自分には彼らが会うのを邪魔をしてはいけない確信もあった。自分でも理解しかねるが、その確信があって二人の仲を裂く事が出来なかったのだ。
だからこそ、昨夜の言葉は密かな抵抗だった。もちろん、が悩むならば当分シフォンに会わない方がいいと思ったのも事実だが。
「大丈夫か?」
「え…あっ…ええ。」
「……」
「…ううん、やっぱり大丈夫ではないわ。」
「だろうな。」
ワルターは空いている方の手での頬を摘んで引っ張った。
引き攣った頬は、固くなっていた。
「何するの?」
「表情がな。」
「何?」
「お前らしく…ないから。」
何を言っているんだと思ったが、そのまま続ける。
「もっと、笑ってくれ。」
顔が赤くなるのを感じた。すると、
「やっぱり熱があるのではないの?」
はいつものように笑った。
「ワルター、お昼はどうするの?」
「俺はいらない。」
「そう、なの。」
あの後二人はしばらく手を繋いだままだった。からは離す気配もなく、ずっとワルターの指を弄んでいた。ワルターも繋いだが離す気配もなく、自分からも離す意味もないのでそのままにした。そのため、の指遊びは彼女の腹の虫が鳴くまで終わらなかったのだ。
彼女は今、どうしていいかわからずに迷路の中をさ迷っているのだろうと思った。しかも簡単に解けるような迷路を、自分で難しくしているのだ。ずっと悩んでいたのをさらに悩ませたのは自分だが、彼女には何かに気付いて欲しかった。
「どこかに行くの?」
「ああ、調べものが……!」
もっと早く気付くべきだと思った。後悔もした。
目の前で自分を見るは、瞳に涙を溜めていた。泣くまいと耐えている瞳だった。
「、すまない。やはり…」
そばにいようと思い、そう言いかける。するとは無理に笑って手を振った。
「大丈夫よ、行ってきて。」
ここでちゃんと気付けばよかったとも思った。が今、一人でいられるはずがないことに。
「私、セネルのところに行ってくる。」
そう言われてしまい、あまりのショックで止めることも忘れてたしまった。
あろうことか、自分よりもセネルなのかとまで思ってしまう。
しかし、
「ヴァイシスがそこにいるみたいなの。」
彼女の最後の一言で、気持ちが少し治まった。
甥に会いに行きたいのなら、止めないでおこう。彼女は頼りがいのある甥に会いに行くのだ。ワルターは半ば言い聞かせるように考え、頷いた。
ぐつぐつ煮える鍋を見下ろすヴァイシスを見ながら、セネルはアームを弄んでいた。宙に放られたアームはぐるぐると舞い、彼の手の中におさまると再び宙に舞う。取り留めもなく、そんな行動をぼーっと続けていた。
キッチンに立つヴァイシスは、おたまで中身を掬っては味見をし、顔をしかめて調味料を入れていく。そして再び味見をすると、頷いた。
「出来た!」
ヴァイシスはニヤリと笑うと、鍋の中のものを見つめた。余程良い出来なのか、自信が溢れかえっている。彼は皿を取ると、中身を盛った。
それを見てセネルは訝しむ。ヴァイシスは仮にも王子だ。王子が料理など、するものなのだろうか。
「本当にうまいんだろうな。」
彼は味に疑いを持つと、ヴァイシスを見上げた。対するヴァイシスはニヤニヤ笑いながら皿を差し出す。
「絶対うまい。言い切れる!」
セネルは皿の中を見た。中身は、何の変哲もない具だくさんのスープだった。
「何で俺に食わせるんだよ、クロエにやれよ。」
セネルはこれが腑に落ちなかった。ヴァイシスはクロエのことが好きだ。だから自分ではなく彼女に食べさせるべきだと思ったのだ。しかしヴァイシスは目を丸くして驚くと、急に優しい笑みを讃えた。
「これは一人暮しのさもしいセネルのために考案したことだからな。病院でしっかりした料理食べてるクロエ殿にあげてもしょうがないんだ。」
セネルはそれを本物の優しさと受け取ることにしたが、ある一言に気がついた。
「ふーん…って、俺がさもしいって?」
そして聞き捨てならんと、じとりとヴァイシスを見る。
「だって好きな女の子は金髪の領域の中、でも今は他の男に靡きそうだし。」
ヴァイシスはニヤニヤと笑うと、目を三日月を逆転させたようないやらしい表情をした。
「うるさい。ところでヴァイシス、お前いつ帰るんだ?」
「さあ?まだ帰らないんじゃね?」
「は?ミュゼットさんは何て言ってんだ?」
ヴァイシスは溜め息を作ると肩を竦めた。
「もう少しいなさいってさ。聖王陛下のお考えは俺には理解出来ない。」
セネルはすぐにの件でヴァイシスを帰さないのだと気付く。
ミュゼットさんもシフォンの事考てみたいだからな…。
「お前、頭いいんだろ?理解しろよ。」
セネルが馬鹿にする様な顔付きになったので、ヴァイシスはむっとすると腰に掛けてある二刀に手を掛けた。
「王子を馬鹿にする気かね、国民よ?」
ヴァイシスは急に無表情になる。しかし無表情にも関わらず、上から目線が威圧的だ。
「げ!!何で俺がクルザンド出身だって知ってんだ。」
セネルは後ずさるがヴァイシスは逃さない。腰の剣をスラリと抜くと、セネルの首にぴたっと当てた。
「我が国民よ、君に求めている返事はイエスかノーだけなんだ。
さあ、答えなさい。」
ヴァイシスの威圧的表情や言動に圧倒され、セネルは俯くと
「ノー。」
と言った。
「三流以下だな。」
ヴァイシスはそう言うといつもの明るい顔に戻る。
「三流以下って…」
「王子を馬鹿にするなど、わたくしめにそんな…とか言い訳をするもんなんだよ、こういう時はな。ただ『ノー』だけなんて、ふて腐れたガキか。」
ヴァイシスは笑いながら皿を受け取る様促した。
「悪かったな。…って、イエスかノーだけだって言ってただろ……」
セネルは思い切り機嫌を悪くすると、彼から受け取った皿からスープを一掬いすると口の中に放り込む。
「うまい!」
機嫌が悪かったはずが、口に入れた途端に一気に直ったようだった。セネルはスプーンを振るとがつがつと口に放り込む。
「お前の家系はといい、料理がうまいのか?」
「うーん、わかんないけどさ。俺のは母上仕込みだからとは味自体違うと思うぞ、国民。」
ヴァイシスはニヤニヤすると、セネルの肩をぽんぽんと叩く。しかしセネルはそれを跳ね退けると、再び食事に戻った。
「王子に料理してもらうなんて、ありえないよな…。」
セネルは食べ終わった皿を流しに持って行く。キッチンの鍋の中には、まだたんまりと先程の料理が残っていた。
「そうだろうな。」
ヴァイシスは興味なさ気に答えた。彼を見ると、上の空で天井を見ている。
そんなヴァイシスが何かを思い出した様にセネルの方を向くと、ニヤニヤと笑った。
「何だ?」
「俺さ、見つけちゃったんだよな。セネルとの秘密。」
「?俺との?」
セネルがぽかんとすると、ヴァイシスは彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「惚けるなよ。セネルとはクルザンドで知り合いだったんだろ?」
「へ?」
セネルは素っ頓狂な声をあげると、ヴァイシスを見上げた。
「隠すなって!人掠いに連れ去られそうになってたを、セネルが助けて仲良くなって…叔父に爪術を見初められたんだってな。その後もはお前に字を教えてたらしいじゃんか。」
ヴァイシスはセネルの表情がどんどんと驚きに変わっていくのを目の当たりにした。不思議に思ってセネルを呼ぶが、聞こえていない。
「うそだろ…?」
「本当だよ。あれ、もしかして二人して忘れてたりするんだ?」
図星だったのか、セネルは顔を真っ赤にする。
「これ、に言ったら驚くかもな!……あ。」
セネルは嬉しそうにしたが、すぐに口を噤んだ。ヴァイシスはそれを覗く。
「だめだ。今のに言っても重荷になるだけだ。」
「セネル…」
「俺さ…」
セネルが切り出す。ヴァイシスは目線を彼に合わせた。
「クルザンドには、もう戻る気はないんだ。だから、今の内緒な。」
「………
…ああ、わかった。」
ヴァイシスは顔を緩めると、再び天井を見た。
セネルがクルザンドでどんな思いをして来たのか調べてきたヴァイシスは、彼の言葉にその重みがあることに気付いていた。からかう様になってしまったが、と出会ったことでセネルは、クルザンドの計画で水の民の集落に入り込んだ。
そしてあの事件が始まったのだ。
「……あ、。」
セネルが上擦った声を出したので、ヴァイシスは驚いて窓の外を見た。
そこには確かに愛しい叔母の姿。
は窓から自分を見ている二人に気付いたのか、目を細めて首を傾げた。セネルが中に入る様に促すと、は微かに笑んで入ってくる。
「今日はシフォンと一緒じゃないのか?」
入って来た叔母に、ヴァイシスは開口一番に聞いた。は少し戸惑うと、消える様な小さな声で
「少しの間、会うのをやめたの。」
と言った。
セネルとヴァイシスは驚いて顔を見合わせる。
「あ、喧嘩とかではないのよ。私、自分と向き合いたくて。シフォンにお願いしたの。」
それきり黙ってしまったを気遣って、セネルもヴァイシスも何も言えなかった。二人で顔を見合わせると困り顔になる。それにが気付いてキッチンに立った。
「あらこの料理…ヴァイシスでしょう?」
「え、何でわかったんだ?には一回も作ってないぞ?」
目をぱちくりさせる甥には笑うと、
「エレ姉様に作ってもらった事があるの。作り方教えてもらいたかったけれど、エレ姉様は家の伝統料理だからヴァイシスにしか教えられないっておっしゃられて…。食べていい?」
「ああ!」
ヴァイシスは母に、レシピをに教えてないことを感謝した。
しかし黙々と食べるに、セネルとヴァイシスは話題がなくて気まずい思いをしていた。
これでは埒があかないと思ったのか、セネルは聞いてみようと思った。
シフォンと何かあったのかと。
は何も話そうとしないけれど、ここに来たということは、何かを話に来たのかもしれないと、自分を頼りにしてくれてるのではないかと期待して。
「、シフォンと何があったんだ?」
彼女の力になれるかもしれないという思い上がりかもしれない、でも少しでも頼りにされているなら…
横ではヴァイシスがやっちまったという顔で自分を見ている。
長い沈黙の後、がぽつりと言った。
「何も、ないの。」
「…!」
「あ、本当なの。何もないの。
何もないっていうのも変なのかも知れないけれど…。私ね、考えてしまって。」
「…」
「…」
「だからいつも一緒にくっついて…。私の気持ちも、何かわからないの。」
はそう言うと、ぽたりぽたりと涙を落とした。
ヴァイシスは仰天して口をあんぐりと開けたまま何も出来なかった。彼の中のはいつでも強い叔母だったので、どう対処していいのかわからないのだ。しかしセネルはすぐに傍らに寄ると彼女の肩を抱いた。そして空いている方の手で彼女の手を握る。
本当はこれ以上聞きたくないと思った。好きな女の子が他の男の事で悩んで泣いている姿を見るなんて、そしてその相談に乗るなど、これほど苦しくて悲しいことはなかった。
「、辛い事吐き出していいから。」
セネルは自分の気持ちを振り絞る様に言った。心は、辛さに耐えている。
「セネル…」
はセネルに抱き着く。セネルが優しく抱きしめると、指先にの銀の髪が絡み、甘い香りがふわりと漂う。それが彼の気持ちを酔わせる。
「私、シフォンと一緒にいたいの。一緒にいないと辛いの。」
自分の赤くなった顔が一気に冷めて行くのがわかった。しかしこうやって抱きしめている以上、話を最後まで聞かなければならない。
「うん…。」
「でも、でも……!!」
は首を横に大きく振って、紫の瞳から美しい涙を舞わせる。
「彼が…、シフォンが何を考えているかわからないの!」
そう言うと、は大声を出して泣いた。
「え…?」
セネルにも、ヴァイシスにもの言っていることが掴めなかった。
「何も、わからないの!!!」
「…?」
恋なのか、恋じゃないのか
が問題なのではなく、にとっては、
シフォンが何を考えているのか、何故無償の愛をくれるのか
が問題なのだ。
彼の優しさ、穏やかさ、たゆまない愛をくれる心。それは紛れも無く存在するものなのに、シフォンの思考が見えてこないために、は信じられない程の不安に押し潰されそうだったのだ。
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彼女の不安は何なのか?
2007/11/18(訂正2008/01/25)
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