苔生した様なむわっとした臭いが鼻に衝く。
それでおいて蒸し暑く、視界が悪い。















コンディションは最悪だった。














額から仕切に流れる汗を拭い、しっとりと濡れた手の平に集中し、弓が滑り落ちない様に握りしめる。




















この前まではこんなに酷くなかった。

自分が逃げるまでは。


















しかし、何もかもが終わったように静まり返る此処。



























もう此処には、牢屋に入れられた私も、会いに来る兄様も、痛め付けられる水の民もいない。














魔物が巣くっているだけ。




























締め付けられる思いに纏わり付かれ、踏み出す足が重い。


















もう、これ以上進みたくない。

















頭に浮かぶのは否定の言葉。
心は叫び、この場を拒絶している。


















しかし、彼女は歩かなければならなかった。

一人の女の子を救うために。






















































様は、貴女が囚われていた砦にたくさんの薬品があるのを知っていましたか?」

「はい。牢屋の中で、色々な臭いを嗅ぎました。様々な薬品を使用していた様ですわね。」


































色々嗅いだのは、薬品の臭いだけではないけれど…。

は思い出すと吐き気を覚えた。
それを抑えるように、スティングルを見つめる。



































「ええ…。私は薬品についてあまり関していなかったのですが…。どうやらそこに、エルザの病を治すのに必要なものがある様なのです。」






























スティングルは擂り粉木を止めると、鉢に立て掛けた。
そして中の粉を指で取ると、パラパラとその場に落とす。

今の話で、スティングルの真意を悟った気がした。
彼女は無言で小さなビニール袋を取ると、彼に差し出す。



































「ありがとうございます。



それで、様にお願いとは…」

































彼は渡された袋に擦った粉を入れると、余分な空気を出して密封した。


































「わかっています…」


































は彼の手早さに感心すると、驚嘆の眼差しで見つめた。
私だったら、一度であの袋に粉を入れられないわ。

きっと、零してしまう。


































「手伝いましょう。私も、エルザを助けてあげたいもの。」



































自分が頼む前に答えられたので、スティングルは驚いて袋を落とした。
彼はハッと気付き、すぐに拾い治すとぱたぱたと埃を叩く。





































「しかし、あそこは貴女が…」

「ええ、囚われていたけれど、もう過去の事だから気にしないで。大丈夫よ。」

「……」





































スティングルは薬袋を机に置くと、申し訳なさそうに頭を垂れ肩を震わせた。



































「私は、エルザのためにたくさん犠牲を出して来た。

貴女も、その一人になるかもしれない。」




































彼はボソリと呟くと、両手を組んで額に当てる。






















見ているだけで、後悔していることがわかる。

震える声を聞けば、それが確信に変わる。







彼はいつか、その罪を償う時が来るだろう。

































貴方を助けてあげたい。

それが、エルザを救うことで達するならば、私は手伝いましょう。


















あの優しいスティングルのまま、オルコット殿に戻って欲しい。











































「私は、私が手伝いたいから手伝うの。それは、貴方が私を犠牲にすることに成り得ない。ね?」

様…」





































は自分の思いを飲み込むと、ただ、手伝いたいと申し出たのだった。



























































「大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。」






































スティングルの不安な問い掛けに、は涼しい声で答えた。


見た目は汗でびしょ濡れ、顔はほてって赤い。
しかしそれでも、彼に心配かけないようにとの配慮だった。









自分でも辛いこの場所は、彼女にとってはもっと辛いだろう。
彼もほてった体を冷ましながら思った。






































「手を、繋ぎましょうか。」




































が突然言い出した。
スティングルは驚くと、彼女を見つめる。



は目を細めて優しく笑うと、「傍にいる、一人じゃないってわかるでしょう?」と言った。





































「そうですね…」





































わけもわからず手を繋ぐと、ここの気持ち悪い生暖かさとは異なる、落ち着く温かさを与えられる。
彼は気持ちがスッと軽くなると、再び足を踏み出した。









































「もうすぐだわ。」

「ええ。」









































かなり奥まで進んだ。


奥へ進む度に気持ち悪いくらいの血の臭い。
人や動物、魔物の骨が視界に入る。
この奥に何か強大なるものが巣くっていることがわかる。




































「スティングル、これは…」

「何か、いる様ですね…」






































二人は無言で手を離すと、お互い武器を握りしめた。
待ち構える様に息を潜め、高まる動悸を抑える。












奥から何かが歩いてくる音が聞こえる。
ぺたりぺたりと無邪気に足音を立て、何も警戒していない。
































は逸る気持ちを抑え、矢を番えた。








































「!!」


































奥から現れたのは人間の男。
体はやつれ、服はぼろぼろ。目は虚ろで、手は横にだらりと下げている。





異様な光景だった。
こんなところで、このような人間が一人で生きていけるはずがない。




































「あ…」



































は声を漏らした。
その男に見覚えがあったからだ。
























あれは、牢番の男!?

あの男は、たしか私を襲おうとしてジェイにやられて…

あれからずっとここにいたというの!?


























の頭は動転していた。
その瞳は異様な男だけを写し、手は番えた矢を離してしまう。



その時、ふいにスティングルが立ち上がった。





































「お前は、何故こんなところにいる?」





































彼も男が軍の生き残りだとわかったのか、声を掛けてみた。
男は虚ろな瞳を彼に向け、ニヤリと笑う。
























その時、の目に黒い霧が写った。

男の中から噴き出す、見たこともないくらいの霧を。







































「危ない!!」









































の一声でスティングルは男の攻撃を後ろに避けた。
彼の前には抉られた床が現れる。

































「チッ…」








































男は舌打つと、を見据えた。
ニヤリとした口が、有り得ない程裂けている。






































「お前を探してたんだ。

叫ぶお前をモノにして…切り裂いて…中身を喰ってやろうってな!!!」



































男の腕が二倍にも三倍にも伸び、は辛うじて弓でそれを抑えた。



































「くぅっ………


きゃっ…!」

































しかし男の力は尋常でなく、は抑え切れずに跳ね飛ばされてしまう。
手から離れ、遠くでカラン弓が落ちる音が聞こえる。








は戦う術も守る術も無くし、目を見開いて襲い掛かる魔物を見据えた。
































紫の宝石がきらりと輝いた後、困惑と恐怖が入り交じった黒く鈍い色が写る。
男の体全ては黒い霧で出来ていて、闇を噴出させている。







がそれに囲まれそうになった時、彼女は横に吹っ飛んだ。




































「うぐっ…」


































勢い良く壁に体が打ち付けられた。

ぐらりと揺らぐ頭を支えながら、状況を把握しようと恐る恐る瞳を開ける。

































「ぐあぁっ!」

































つい寸前まで自分がいた場所には、スティングルが滑り混んでいた。
男に肩を切られ、止まらぬ血を抑える様に傷を覆っている。




































「スティングル!!」



































は彼の名を呼んだ。彼は剣を構えると、男を睨み上げる。
男はニヤニヤ笑いを崩す事なくスティングルを見下すと、腕を振り上げた。



































「やめて!!!」



































その時、の声が砦の中を木霊していた。




































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スティングルピンチ!
娘のために死ねないくせに、ヒロインを娘のために犠牲にするかもしれないと言
っているのに、彼女を守ろうする優しさ。


2007/05/29












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