その時、誰かが泣き出したかのように雨が降り始めた。
は目の前にいる少女を見て思う。
クロエの心が泣いている…
「何してるんだクロエ!!!」
「クーリッジ!?」
クロエはの首から手を離すと、後ずさった。
その顔色は青ざめ、セネルを見ないように目線を逸らす。
「セ…ネル……」
クロエの手は離れたというのに、依然の首から黒い霧の巻き付けが解かれる事はなかった。それ以上にその力を増して締め付けてくる。
「!!」
セネルがの方に手を伸ばす。
しかしそれは跳ね返されると、彼の手に小さな痺れをもたらした。
「なっ……クロエ、こんなことやめろ!!」
「ちっ…違う、私は……」
クロエがセネルを見ないように言った。
セネルはクロエの方に近づいていくと、怒りを我慢した顔で彼女を見る。
「クロエ、お前はオルコットさんの手紙を握り潰してたよな。
がここに来なかったら、どこへ行こうとした?」
「……」
「誤魔化そうなんて考えてくれるなよ。」
「…言っている意味がわからない。」
セネルは怒りを抑えた静かな言葉をクロエに投げかけた。
しかし彼女がその気持ちに応えることはなく、離れていこうとするだけ。
「オルコットさんの手紙に、何が書かれていたんだ?」
「……クーリッジには関係ない。
知りたければ、が教えてくれるだろう。」
クロエはをチラリと見た。
彼女が黒い霧に捕まり、身動きできないのを確認するとホッとしたような顔を見せる。
「クロエ!何故そんな顔をするんだ。は仲間だろ!」
「仲間じゃない!!!」
セネルの言葉に、クロエが逆上したように叫んだ。
そして瞳に炎を宿らせてセネルを睨む。
「が仲間だって!?どこが仲間だっていうんだ!」
そしてこう言うと、の方を向いて憎しみの篭った眼差しを向ける。
「あいつはヴァーツラフ軍の生き残りだ。我が祖国の、敵なんだ。」
「クロエ……」
「……私は愚かだ。
お前達と馴れ合い、目的を見失っていた。
あれほど憎んでいたのに。そのために剣を握ったのに。
私はもう、敵討ちを諦めていたんだ。」
クロエは一偏変わって、悲しみの瞳でセネルを見つめた。
まるで本物のクロエと、黒い霧に支配されているクロエが交互に出ているかの様。
彼女は悔しさにギリと歯軋りすると、言葉を続ける。
「スティングルに逃げられた後で、再び奴を探し出す気などなかった。
父と母の墓前に立った時にも、昔のような憎しみを抱く事はなかった。
このまま忘れられたはずなのに…・・・。
なのに・・・…なのに……。」
「両親の敵は、目の前に姿を現した。
スティングルではなく、オルコットとして。」
クロエの言葉を補うようにセネルが呟いた。
途端、クロエの顔が憎しみに変わる。
「そうだ!腕の刺青を私は見てしまった。
知ってしまった以上、平然と日々を過ごす事など出来ない!」
「クロエ……」
セネルが彼女に腕を伸ばした。
しかしそれは彼女によって払い退けられ、パンッと乾いた音が鳴る。
「の事だって、本当はそうであったはずだ!!
なのに平然と毎日を過ごして、頼りにして、今まで来てしまった。彼女は敵だというのに!!!
私は……本当に愚かだ。
も、スティングルもクルザンドの者だ。
私の、敵だ。
一度でも、意識してしまうとダメなんだ。埋もれていた記憶が、鮮明に掘り返されて行く……。惨めで仕方がなかったあの頃の記憶が……。」
クロエはセネルからどんどん後ずさっていく。
まるで、彼を恐れている様。
「……憎しみが体を支配していくのを黙ってみているしかないんだ。
もう、この感情をどうすることもできない!」
彼女はそう言い切ると、完全にセネルから目を逸らした。
「……俺が悩んだ時、お前は俺を支えてくれたよな。話もたくさん聞いてくれた。弱音もたくさん聞いてくれた。
あの時、もし一人だったら、今の俺はなかったと思う。
だから、一人で抱え込むな。一人で苦しむなよ。」
セネルはその頃を懐かしむように言った。
が知らない二人の話。
彼女は、霧に巻かれながらも彼らのやり取りを懸命に聞き、微笑む。
セネル、クロエを助けてあげて。
が思うのはこの一つだけだった。
クロエが助かるなら、このまま黒い霧に巻かれても惜しくないと思ってしまう。
「クーリッジ……
両親を殺されてから、私の人生は悲惨なほどに大きく変わった。」
「……。」
「最初は理不尽な悲しみに、泣いているばかりだった……。だが、状況は甘えを許してくれなかった。
ヴァレンス家の生き残りとして、その名にふさわしい行動を、周囲に示す必要があったんだ。
家名を守るために努力をした。私に出来る全てをし尽くした。
だが、所詮は子供のやることだ。間違いなどいくらでもある。
お取り潰しが決まるまで、そう時間はかからなかった。
必死に守ろうとした家がなくなることに、悲しみはなかった。
正直安心したくらいだ。これで周囲の声を気にしなくていい……。」
クロエは穏やかな顔になると胸を撫で下ろした。
きっと、あの頃を思い出しているのだろう。
は自分が王女という立場だという事に、クロエと同じように重みを感じる事はいくらでもあった。
王女だから出来る。王女だから当たり前だ。王女だから……
クルザンドという軍事国家の中で、戦いは切っても切れぬものだった。
戦いを望むわけでもなく、嗜み程度に行っていた弓技。
いつしか人を殺す武器になっていった。
誰かを守るためだとしても、その理由は王女だから。
王族は、国を、民を守らなければいけない。
今だって、そうだ。
世界を見守る者という言葉が、まだ不明確にしろ彼女の肩に重く圧し掛かっている。
「私を引き取ってくれた家の人達は、皆、いい人ばかりだった。親切にしてくれたし、立場を理解して優しくもしてくれた。
だが、その裏で私の事をどう呼んでいたのかも知っている。
お人形の当主様だ。
誰も私に家を守れるなどと、初めから思っていなかった。
そして、その時に気がついた。
私は一生、クロエ・ヴァレンスなのだと。
どこで何をしようとも、血と名の呪縛からは逃げられない。」
クロエはぎゅ、と手を握り締める。
「手紙にはこう書かれていた。『覚悟あらば剣を手に、まいられよ』
……クーリッジ、そこをどけ。」
セネルはクロエの行く先に立ちはだかる。
「をそろそろ助けてやらないと、死ぬぞ?」
「!!」
彼は、の方をチラリと見た。
彼女は黒い霧にギリギリと首を絞められている。しかし彼女は首を横に振ると、瞳で訴えた。
クロエを、助けて。
セネルはこう聞こえた気がした。
はきっと、大丈夫だ。今はクロエだ。
彼はそう思うと、断腸の思いでに背を向けた。
「オルコットさんのところに行くつもりだな。
エルザの事はどうするつもりだった?俺達のことはどうするつもりだったんだ!?」
「……」
「黙って姿を消すつもりじゃないだろうな?
それこそ子供のやることだろ!」
「そうだな、そうかもしれない。」
「ふざけるなよ!」
「私の時間は、あの日に止まったままなんだ。
剣を手に取る覚悟を決めた時に、私の時間は止まったんだ。
そこをどけ、クーリッジ。
むざむざとを死なせたくないだろう?」
「まだ話は終わってない。」
勢いづくクロエに、セネルは冷静に首を振った。
しかし激情したクロエに冷静さは通じない。
「ならば、お前には自分を抑えることが出来るというのか!?
ステラさんを奪ったヴァーツラフを目の前にして、冷静でいられたか!」
「……それは。」
セネルは後ろめたそうに肩を竦めると、唇を噛み締めた。
そんなことは出来なかった。でも……
「底無しに込み上げる殺意は、ちっぽけな体にはおさまりきらない!
違うか?クーリッジ。」
「……」
違うとは言えず、彼は何も答えてやる事が出来ない。
違くはない。でも
「お前は違うと断言出来ないか。
ここにはもいるし、上にはステラさんもいる。
を通じたからだとしても、来世で会うと誓ったお前達はどんなに幸せだろうか。
私には分からないな。」
「クロエ……!!」
クロエは腰に帯びている剣に手を伸ばした。
そしてセネルに、に向けたものと同じ憎しみの瞳を向ける。
「お互い相容れないのならば、こうするより道はないだろう。」
「剣を抜けば引き返せなくなるぞ。」
「もとより、引き返す気などない!」
セネルも拳を構える。
「……バカ野郎」
「これが最後の忠告だ。そこをどけ、クーリッジ。」
「断る。」
クロエの目が細くなったかと思うと、その瞳に憂いを帯びた。
「お願いだ。これ以上私のために何かをするな。
お前の優しさにこの身がちぎれそうなんだ…。
そこをどけ、クーリッジ。」
憂いを帯びた瞳は、すぐに強い意志を持った瞳に変わる。
「やめろ。」
「どけといっているのがわからないのか!」
「やめろといっているのがわからないのか!」
クロエは、剣を手にセネルへと向かっていく。
「この殺気、本気なのか!」
「覚悟がなければそこをどけ!死ぬぞ!」
「やめろクロエ!!!!!」
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迷いと覚悟の間で揺れる心。
2007/09/30
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